「わざわざ道」を生きる [つぶやき]
先日、フラメンコギタリスト沖仁さんが、フラメンコ発祥の地と言われるアンダルシア地方の街ヘレスを訪ねる番組を見ました。
沖さんはフラメンコギタリストを目指し始めた頃、単身この地に住み勉強していたそうですが、今回の旅では、カンテ(歌い手)と言えばこの一族、と言われるアグヘータ一族の大御所マヌエル・アグヘータへの挑戦、それを前にアグヘータの一族達との共演を果たします。
沖さんは以前、共演したカンテから演奏を急遽中断された、という屈辱を味わい、自分の力不足を感じたそうです。
アグヘータへ挑戦することで、演奏を中断された過去と自分を乗り越え、さらにフラメンコやギターへの理解を極めていきます。
番組の中で、
フラメンコはヒターノ(スペインジプシー)のもの。でも一緒にいればファミリーだ。と話すヒターノである友人に、
自分はヒターノではないからヒターノのことはわからない。でも感情としてはわかる。
と、沖さんが心情を語るシーンがありました。
それを見ていて…
ヒターノのものであるフラメンコ。日本人でありヒターノではない沖さんは、何故「わざわざ」これに挑戦するのか?
と。
最近私が考えていた、なぜ私たちは「わざわざ」挑戦するのか?に見事にオーバーラップしました。
フラメンコギターとは、カンテの心、そしてリズムや間を読みながらでないと息が合った良い演奏は出来ない。
カンテはギターのリズムを聞き、その時浮かんできた心情を即興で歌います。
その歌を聞いていると、移民・放浪・貧困…ヒターノの歴史が刻みこまれた叫びのように聞こえます。
そんなヒターノの心を読む、なんてことを日本人がするとは、無謀に近いことでは?
なのに何故「わざわざ」挑戦するのか。
もっと「楽」な生き方もあるんじゃないの?ヒターノのことはヒターノに任せておけばいいんじゃないの?
番組を観た後もずっと頭から離れませんでした。
でも。
たぶん。
この「わざわざ」ってのがキモなんだと思います。
やらなくても良いのにやらざるを得ない…。
「駆り立てられる」とも言えるかな。
もしかしたらこの「わざわざ」がその人の「生きる道」ってことなのかも?
…私の周りにはこの「わざわざ」挑戦している人がたくさんいます。
最近この「わざわざ道」に片足突っ込みかけ始めた?と感じている私。
何故やるのか?もっと楽にいられるのでは?と自問しながらも、やはり「わざわざ道」を進んでしまうのだろうな…。
それが恐らく私の生きる道、だから。
…と言いながらもまだ吹っ切れず、なぜ?どうして?「わざわざ」やらなくてもいいのでは?と自問は続きます…。
いつか吹っ切れて真の「わざわざ道」に進むまで。
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