優れている、に憂う [つぶやき]
子供の頃から、
誰かだけ優れている、とか、
自分だけが出来る、とか、
誰々ちゃんだけに、とか、
そう言うのがダイキライ。
小学2年生の時に私から見てエコヒイキしていると思った先生(しかも学年主任級のベテラン先生!)に
「エコヒイキする先生はダイキライ!」
と啖呵を切って職員室に呼び出されたこともある。
だってそう言う発言や態度をする人にとても嫌悪感があるんだもん。
なんでだろうか…コンプレックスの固まりだから?!
そう、私はコンプレックスの固まりなのです!
そんな私の内面など全くご存じないだろう、店で大変お世話になっている中小企業の社長さん(
…と言っても同世代の方ですが)が面白い見解をお話くださいました。
曰く、
「自分にしかできない」ことなんて無いんです。
100mの世界記録だってたかだか差は2秒くらいでしょう?
何億もある細胞が同じ人間でそう大差があるとは思えない。
記録保持者も自分もそれなりの環境で訓練したらそう変わりはないだろう。
だからオンリーワンになりたければ、誰もやらないことをやればいいんですよ。
と。
それを聞いてものすごーく共感しました。
そうだよねー誰でも平等にチャンスを与えられているし、
自分が得意とする事を頑張ればそれでいいじゃん。
みんなが同じ土俵で競わなくて良いし、しかもそれを誰か別の人が評価する必要もない!
そんな折りに誰かの投稿した記事で、優れている人は…という言葉を見ました。
優しい、と言う意味での「優」っていう字は好きだけど、
優れている、と言う意味での「優」っていう字は好きじゃない!と強く感じ、
漢字の意味を調べてみました。
源字である「憂」を分解すると…頭と心、そして足が絡まっている様を表しているのだそうです。
それが、しなやかに足をずらして静静と振る舞う仕草となり、しなやかに振る舞う俳優の意味となった
と。
だから本来の「優」の意味としてはそちらが先に来るのです。
その次にしなやかなさまが転じた すぐれている の意味になると。
最近では優劣とかの言葉の方が前にでているけれど、本来の意味はそうなんだ。
誰かにどう見られるかなんてどうだっていいこと。
自分が納得して幸せにいきることが大事だよねー。
イヤダイヤダと思いながらも比較され批評されることが当たり前の中で生きてきた。
今声を大にして反発しまーす!!!
ちなみに、「優」の「憂」と、「憂い」の「憂」は元の成り立ちが違うんだそうです。
勉強になりました!
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