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What's Love [つぶやき]

2017年秋分は大変大きな切り替わり時期、と多方面で聞いていました。
この1週間に感じたことを忘れないように記しておこうと思います。

【What's Love】
「愛で充たす、愛で充たされる」そんなことが自分のやりたいことだった!と思い出した。
大それたこと、かもしれないけれど、自分がこの世に存在する意味をしることはきっと道標になってくれるはずだから。

・・・

先日のライヴでお越し下さった認知症のご主人と奥様。
お二人で参加した「RUN伴」で、今まであまり周囲を認知出来ていなかったと思われるご主人の様子に変化が見られたから、とトライアルでライヴにお連れ下さったとのこと。

ライヴは1stセットは滞りなくサラッとスムーズに始まりサクサクと数曲が演奏され、という印象。
ところが、何曲目かで急に音楽が変わった。「あぁ美しい・・・」と感じ音楽に身を浸す。

2ndセットがはじまる。
明らかに何かが変わっていた。

それからの1時間。演奏者から奏でられる音の一つ一つに愛が感じられ、照明を落とした狭い空間に
美しい空気が充たされてゆく。

高校時代を思い出した。

授業の合間の休憩時間、女子同級生が連れだって化粧室に行くのにもついて行かず、ひたすら廊下側の
壁側の自席で教室を見渡し、はしゃいだり、おしゃべりしたり、早弁するクラスメイトを眺めて過ごすのが好きだった。
そんな時は大抵、脳が開放されていて教室の空気と一体になり溶け合っている、そんな感覚に浸る。
身体の中を巡るエネルギーと、教室の空気を巡るエネルギーが、溶け合い混ざり合う至福の時間。

「何してるの?」と同級生の男の子に聞かれても「人間観察」なんて答えていたことも思い出す。

あの時の空気と溶け合い混ざり合う至福の感覚が会場内に充たされていたのだ。

「あ、愛で充たされてる」
そう感じながらライヴを終えると、ほとんどのお客さんが帰った後でミュージシャンとのアフタートークがはじまった。

「夢を持つこと」を少しコバカにする風潮がある現代。でも「夢」を持ち続ければ必ず同じような人達に出会える。
そんな話が印象的だった。

その中で今日のライヴに話題が及ぶ。

ピアニスト曰く、本番スタート直後にサウンドチェックの時より音がだいぶデッドになっていることに気づき、
このままでは音楽に表情が付けにくくなってしまう、と急遽リハとだいぶ弾き方を変えたのだそう。
その時に思ったのが「彼」のことだった、と。

認知症のご主人を連れて見えるお客さんがいらっしゃるということは、何か不慮の自体が発生した場合を
考慮しお伝えしてあった。

ピアニストが思い出した「彼」とはそのご主人のこと。

「彼のように 自分も初めて聴く、初めて弾く、と思ってみよう」と。

そこに【愛】があった。

・・・

後日。
その日以来、愛って何だろう。と心のどこかで思い続けていた。

ふと思う。「愛」とは単なる感情ではない。すべてを充たしているエネルギー。
宇宙は誰かの意思で創り出され、何かのエネルギーで充たされている。
すべての現象は緻密に計算され、善悪も強弱も陰影も、ない。
万事「そのまま」なのだ。

そしてそれが「愛」なのではないだろうか。

そんなことを思うと自分がやりたいことはこれだ!と思った「愛で充たす」はすでに完成している。
私、個人が働きかけるようなことではない。でも高校時代からのあの感覚は、まさに自分がやりたいことだ!と強く感じたはず。

「愛」って誰か一人でも、何か一つでも、望むものがあればその結果はすべて「愛」の結果。

極端な例だけど、「戦争」だって誰か一人だってそれを望んでいれば、起こることは「愛」になる。
大地震も大洪水も、自然の中の何か一つであっても、それにとって望ましいことならば「愛」なのだ。

だからこそ、全ての人、全ての自然、全ての意識が「愛」になること。

私はそこを目指すのだろう。

ものすごく大それたことで、ちっぽけでちっぽけな自分が言うべきことではないかもしれない。
それでも、それに思い至ってしまった以上は宇宙にその意思を投げなければ何も始まらない。


これが私が存在する意義。
この先自分の全ての行動の基盤になるはずの意識。

そして、「愛で充たす」には、宇宙と一体になった目線になること。
自分や他人、など同じ次元の目線ではなく。
もっともっと俯瞰して全体からの目線は「愛」と一体になった状態なのだ、とさっき気づいた。


・・・

ここに記し宇宙に解き放とうと思います。
名前に「愛」を付けてもらったこと。それも繋がっているんだろうな。
美しい名前をありがとう。

・・・
この記事は2017年9月25日に書いてそのまま下書きになっていました。
ここまで書いておいてなぜ下書きにしたのか?覚えてません。
でも、この時のことは忘れちゃいけない、忘れたくない。
それに、残しておきたい、と改めて思ったので今日公開しました。
(2020/6/1 ぴょんきち)

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鎧をぶっ壊せ! [つぶやき]

夏の閉店危機から新しい顧問の方に見ていただいていますが、店の経営状態だけでなく、自分たち自身の全面改革を突きつけられています。自分の意識改革。

なかなか自分が分からなくてもがきもがきもがきまくっていますが汗

備忘録として、気づいたことをここに書き記して残しておこうと思います。

自分のテーマ、自分を信じること、これは少し前から気づいていて、なぜ自分を信じられないのか?人を信じられないのか?を模索していました。そして一つの気づき。

自分は自分を守る為にガチガチに固めてドッシリと重くなった鎧を身に纏っている。
自分を守ってくれると信じているその鎧を信じている限り、その中の自分自身を信じることに到達できない。

なぜ鎧を纏っているのか?その鎧を脱げないのか?

鎧を脱いだら「素」の自分が何もないから怖いのだ。

でも「素」の自分が何もないかどうか、自分の中にキラリと光る何かが一つもないのかどうか、
そんなことは脱いでみなくちゃ分からないのだ。

まずは

鎧をぶっ壊せ!!!

だ!

無邪気に「素」の自分になれた時にはじめて自分自身が分かるのかもしれない。
そこに到達できなければ宇宙の藻屑として消えてしまえ!だ!

今だから、今こそ、そこを脱して新しい自分へ!
自分、ファイト!!!!!


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「あきらめるってぼくはもうだめだとおもうこと」 [つぶやき]

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8月に出会ったこの言葉。
店の存続危機という私の命を救ってくれた言葉です。

8月頭に「もう無理だ」と思ったあの時、この言葉に出会わなければ、私は死んでいたでしょう。
もちろん実際に命を絶つと言うことではなく、店という私の命は絶たれていた。
絶望感と自責の念。そして先の見えない未来。

そこにほんの少しだけ射したかもしれない光さえ、気づかず・・・と言うよりむしろ自ら遮ろうとしていた。

この言葉が無ければ、その光を自ら遮ったまま、店という命は絶たれていたかもしれない。

「あきらめるって
 ぼくはもうだめだ
  とおもうこと

こころみるって
 あしたには
  きっとできる
   ということ」

もしかしたら見逃して、自ら遮っていたかもしれない光を、光だ!と感じさせてくれた言葉。

これは
「大城組の小さな巨匠たち」
という、特別支援学級の子供たちが創った作品の中の一つでした。

来年秋、この作品が店に並びます。
私の命が復活したキッカケとなった作品を店に展示していただける。
こんな幸せは無いと思います。

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素直さが真剣さの源なのですから [つぶやき]

数年間寝た子を起こさないようにそっと見守っていた書類の山。
とうとう積み木崩しをしてみたら…。

ーーーーーーーーーーーー
『La spontaneite engendre la sincerite』
素直さが真剣さの源なのですから。

Fransois BRET 
フランソワ ブレ
ーーーーーーーーーーーー

と書かれたメモを発見。
どう見ても自分の字…だけど全く覚えてない。

何だっけ?と検索してみると、2004年に亡くなったフランスの画家だった。
独占契約しているという画商のホームページでたくさんの画像をめくってみると見覚えのある絵が。
確かにこの絵を何かで見て、その時この言葉を知ったのだろう。

いつ、どこで見たのか。
なぜこの言葉が心に留まったのか。

まったく覚えてない。

それでも、今、ふたたび私の心の扉をノックする。


ありがとう。数年前の私から時を越えたメッセージ。
今度こそ忘れないようにここにも書いておこうね。



書き留めてあった裏紙…表は辞典のコピーだった。
「かわうそ」の欄。うむむ…謎は深まる。
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個性心理學!! [つぶやき]

もう1年弱経つでしょうか…。ちょっとした知り合いの方がセミナー参加者を募集していたので気になっていったのが「個性心理學」
その時に購入した本が出てきたので久々に読み返してみました。

個性心理學…いわゆる「動物占い」で一躍有名になった統計学の大元になった哲学です。
動物占い、なんていうとちょっとお遊び的な感覚で、当たってる!当たってない!と大騒ぎしそうですが。

いやいや、侮るなかれ!これはスゴい!

そもそものルーツとなる考え方やそこで説いている内容は個性心理學研究所のページや本を読んでいただければお分かりいただけると思うので、ここでは説明しませんが(出来るほど知らないし!)、この考え方は対人関係…そもそも自分を知る上で重要じゃないかと思います。

基本となるのは生年月日。でも、同じ生年月日の人達が全員同じ性格なわけあるまいし…なんて今まで思っていたけど、本に書かれていたその人が生まれたその瞬間の宇宙の星ぼしの配列は二度と全く同じにはならない、なぜなら宇宙は拡大膨張しているから、と読んでハタと気づく。
私たち人間も宇宙の法則の中で命をいただき、生を育んでいる。その宇宙にまたと同じことが起きない、その瞬間に生まれた個性が一人一人同じわけがない。そこを研究した学問ならば、占いなどと十把一絡げに出来ないぞ、と。

確かに人の個性はオギャーと生まれたまま、何の影響も受けないことはあり得ない。
でも、これを知ってと知らずじゃ大きな違いがありそうだ、と。


これは親子、夫婦の最小単位はもちろん、社会の中でも大いに利用すべき哲学かも!
ご存じない方は一度お読みになっては?オススメです!

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自尊心 [つぶやき]

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またもや更新がずいぶんと開いてしまいました。

ここのところ、読書ラッシュです。
読書の秋…にはまだちょっとだけ早い気もしますが。

自分で図書館で借りた本、購入した本、それ以外に、結構お客様から本をお借りすることがあります。
カウンタートークの中で出た話題に興味を持つと関連した本をお借りすることもしばしば。
先日、あるお客様からお借りした本の中に『おかげさまで生きる』(矢作直樹 著)がありました。

矢作先生とは実はある方の講演会で同じ場に居合わせたことがあります。
それ以外にも、以前良くお越しくださっていたお客様が親交があったこともあり、お名前はお聞きしておりましたし、著書も一冊読んだことがありました。
東大医学部の教授であり、東大病院の救急部でご活躍なさっている先生ですが、「人は死なない」という本で一躍注目され、テレビなどでもご覧になった方も多いのではないでしょうか?

今回の本でテーマにされているのが「おかげさま」なのですが、大きく分類して世に多く出ている「心」を扱う題材の本と大方似たような内容だと思います。
その中で私が一つ心に響いたのが(他に何カ所も心に響いた箇所はありましたが。)

【自尊心】
について書かれた項目。曰わく
「自尊心とはこの世に生かされている感謝の気持ちの裏返しですから、そもそも私たち全員がもっているものです。」
と。

私の中では自尊心=自信や誇り、と思っており、自ら誇るものがあるかどうか、だと思っていたのです。
そもそも、昔から自己評価が苦手で、以前勤めていたときに期毎に提出する評価シートで、上司に「君の自己評価は著しく低すぎるから書き直して」と言われ、転職の試験で行った適正テストでも、担当者との面談で「ここまで自己評価低い人は見たことがない」と言われ不採用になった経験があります。
未だに自分のことが理解できてないなぁと自ら思うこともしばしばある私は、自尊心が低いというレッテルを自分自身に貼ってさらに自己評価を下げていたのだと思います。

そんな私の目の前に現れた矢作先生のこの言葉。
自尊心が低いとは、感謝が足りないのだ、と気づきました。

自分の存在が今この世にあること、それ自体が奇跡であり、尊いことなのだと言うこと。
そんな自分の存在があることへの感謝。
これは心に突き刺さりました。

自分が何者か、誇れる何かを持っているのか?
そんな後から追加される「何か」で測ることなんてない。
「私がここに在る」
それだけで誇れる「何か」なんです。

それに気づかせていただいたことに感謝!



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ママの名前は「お母さん」 [つぶやき]

久しぶりの更新となりました。
途中書きたいことは山ほどあったにも関わらず、時間がとれないままあっという間に時は流れ…汗


さて、今日はカワイイお客さんのお話を。

たまにママと一緒にベビーカーに乗ってやってくるヒカル君。生まれる前からのお客様です。
普段は天使のような寝顔でご対面が多いのですが、今日はラッキーなことにオメメぱっちり♪
だいぶお話が出来るようになってきたので、まずは年を聞いてみました。
とは言え、普段のご対面は夢の中で~なので、私は知らないおばちゃんと言うこと。
近づくと、握りしめた小さなこぶしを膝の上にちょこんと乗せて一瞬のうちに固まってしまいます。

「ヒカル君は何歳ですかー?」
「…○△×」
「ん?ヒカル君は何歳ですかー?」
「…イサイ…」

小さな声で答えてくれました( ´艸`)
それじゃ次はお名前を。

「ヒカル君、お名前はー?」
「…○△×ヒカルです…」
はい、良くできました♪

と、そこでママが、最近言えるようになったという家族のお名前を聞いてくれます。
「パパのお名前は?」
(私、聞いても正解が分からないぞ!?)

「…○△×…」
パパのお名前が分からないので聞き取れないかと思い、もう一度聞いてみると…

「パパのお名前はー?」
「…おとうさん」

(!?!?!?!)

続いてママが「ママのお名前はー?」
「…おかあさん」
またまたママが「ねえねのお名前はー?」
「…おねえちゃん」

(おいおいヒカル君、それは一般名称だよぉー爆!!)

子どもってオモシローーーイ(≧∀≦)

ふと、姪っ子が小学生の低学年だったときのことを思い出しました。
彼女にとって母親である私の姉と、祖母である私の母と一緒に遊びに来てくれたときのこと。
彼女は私のことは友達のように「アキ子ちゃん」と呼びますが、当然私の姉を「お母さん」私の母を「おばあちゃん」と呼ぶわけです。
ところが私は姉を「お姉ちゃん」母を「お母さん」を呼ぶわけです。姉も母のことは「お母さん」と呼ぶ。そんな一般名称での呼び合いが行き交う中、姪っ子は混乱したのでしょう。
突然…

「アキ子ちゃんって誰??」

とハの字眉毛になって聞いてきました。
一般名称だってことがよく分かっていなかったのでしょうねー。

さてさて、ヒカル君、どこのママもがみーんな同じ名前なのか!?と驚く日はいつ来るのでしょうね。
そして、そんな発見の連続が成長の証なのでしょうね。
生まれる前からのお客様、いつまで成長を見続けられるのかなぁ。
こんな環境もお店をやっている醍醐味なのかな、なんて嬉しいひとときなのでした♪

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人の感性を磨き花開かせること! [つぶやき]

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久しぶりの更新となりました。

ここのところ「インスピレーション」という言葉が心に残ります。
最近、そんなことをセミナーで伝えているという方のメルマガを取ってみたりしていますが、
その中に多くの成功者はこのインスピレーションを重要に思っている人がほとんどだ、と読みました。

はて、
ではこのインスピレーションとはなんだろな。
インスピレーションと自我から生まれる考えとの違いとはなんだろな。
と。

私はそういうことをきちんと勉強したことがあるわけではありません。
そういうことが書いてある本やブログを読んだりするくらいです。

確かに、今、店で一緒に活動している人たち、ライヴをやってくださるミュージシャンや、アーティスト、イベントで講師を務めてくださる方などのほとんどが個人で活動している方ですが、そういう方々とお話しすると大抵はご自分の感性、インスピレーションに従って生きていらっしゃるのではないか、と思えます。
そして、こんな私でも少なからず影響を受けているのだと思います。

なぜなら、自分自身でもインスピレーションに従うことが多くなってきたからです。
そして不思議なことに、これに従うとなぜだか色々がうまくいったり分かったりするのです。

では、上述した、インスピレーションと自我から生まれる考えとの違いとはなんだろうか。
自分が思いついたことが、インスピレーションなのかそうじゃないのか、どう区別すればいいのか?
と知りたい、と思って色々検索していたら(実は検索もあるインスピレーションに基づいたのですが)
出口光さんのインタビューのYoutubeに行き当たりました。

そこで出口さんが仰っていたのが「こころ」と「たましい」の違い。

こころ、とは肉体があってこそのもの。だから変化するものだと。
逆に、たましい、とは不変なもの。
と言うようなお話だったかと思います。

インスピレーションかどうかの判断は、自分のこころが喜ぶことではなく、たましいが喜ぶかどうか。
これが答えだな、と思いました。

そして、こころではなくたましいが喜んでいるか、が分かるためには、感性を研ぎ澄まし素直でいること。鈍い感性では判断できないからです。

…そんなことで、では私のたましいが喜ぶこととはなんだろうか。と言う考えに至ったわけで、
それで浮かんだのが
「自分で気づくことで感性が磨かれ、その人のたましいが花開くこと」でした。

私たちの店では色々な催し物をしていますが、継続して参加してくださる方々を観察していると、中にはどんどん表情がきらきら輝いてくる人がいます。
また、行動が変わってきたり発言が変わってくる人も多く、私が心底嬉しく思うのがこの変化を発見したときだったのです!

先日も、大体はハの字眉毛で困った顔であることの多いある女性が、イベントの後の懇談会で今までに見せたことのない輝かしい表情で皆さんとお話ししているのを発見したとき、自分の中に沸き上がる喜びを覚えました。

出口光さんは「誰にでも天命がある」とおっしゃっていました。
私の天命があるとしたら、
この店を通して多くの人たちに、
”その人の感性が磨かれ、その人のたましいが花開くこと ”のきっかけとなる場を提供していくこと、
なのだと思います。

せっかくの気づきなので、この場で宣言し、記録にとどめておこうと思います。

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優れている、に憂う [つぶやき]

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子供の頃から、
誰かだけ優れている、とか、
自分だけが出来る、とか、
誰々ちゃんだけに、とか、
そう言うのがダイキライ。

小学2年生の時に私から見てエコヒイキしていると思った先生(しかも学年主任級のベテラン先生!)に
「エコヒイキする先生はダイキライ!」
と啖呵を切って職員室に呼び出されたこともある。
だってそう言う発言や態度をする人にとても嫌悪感があるんだもん。

なんでだろうか…コンプレックスの固まりだから?!
そう、私はコンプレックスの固まりなのです!

そんな私の内面など全くご存じないだろう、店で大変お世話になっている中小企業の社長さん(
…と言っても同世代の方ですが)が面白い見解をお話くださいました。

曰く、

「自分にしかできない」ことなんて無いんです。
100mの世界記録だってたかだか差は2秒くらいでしょう?
何億もある細胞が同じ人間でそう大差があるとは思えない。
記録保持者も自分もそれなりの環境で訓練したらそう変わりはないだろう。
だからオンリーワンになりたければ、誰もやらないことをやればいいんですよ。

と。

それを聞いてものすごーく共感しました。
そうだよねー誰でも平等にチャンスを与えられているし、
自分が得意とする事を頑張ればそれでいいじゃん。
みんなが同じ土俵で競わなくて良いし、しかもそれを誰か別の人が評価する必要もない!

そんな折りに誰かの投稿した記事で、優れている人は…という言葉を見ました。
優しい、と言う意味での「優」っていう字は好きだけど、
優れている、と言う意味での「優」っていう字は好きじゃない!と強く感じ、
漢字の意味を調べてみました。

源字である「憂」を分解すると…頭と心、そして足が絡まっている様を表しているのだそうです。
それが、しなやかに足をずらして静静と振る舞う仕草となり、しなやかに振る舞う俳優の意味となった
と。

だから本来の「優」の意味としてはそちらが先に来るのです。
その次にしなやかなさまが転じた すぐれている の意味になると。
最近では優劣とかの言葉の方が前にでているけれど、本来の意味はそうなんだ。

誰かにどう見られるかなんてどうだっていいこと。
自分が納得して幸せにいきることが大事だよねー。

イヤダイヤダと思いながらも比較され批評されることが当たり前の中で生きてきた。
今声を大にして反発しまーす!!!


ちなみに、「優」の「憂」と、「憂い」の「憂」は元の成り立ちが違うんだそうです。
勉強になりました!
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大草原の小さな家シリーズの茶論トークやります! [イベント]

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今年2月から隔月で開催している『英米児童文学の楽しみ~翻訳家 谷口由美子の茶論トーク~』ですが、
次回は12月17日(火)14時から開催されます。

今回のテーマは「大草原の小さな家」シリーズでお馴染みの、ローラ・インガルス・ワイルダーです。
ローラがアルマンゾと出会う「長い冬」を中心に、翻訳された谷口由美子先生にお話を伺います。
谷口由美子先生ご自身が愛してやまないローラのお話をまたお聞きいただけます。

このイベントでは少人数ですのでアットホームでインタラクティブな会で、先生のお話を聞きながら質問したり感想をお伝えしたり、お茶とケーキをいただきながらトークをお楽しみいただけます。

今までもローラに限らず先生が翻訳を手がけた作品の数々について、その時代背景から作家の人生について、舞台となった現地のお話、はたまた翻訳秘話などお話しいただきました。
過去にとりあげたのは「あしながおじさん」「秘密の花園」「サウンドオブミュージック」そして赤毛のアンで知られる「モンゴメリ作品」についてです。
また、会の終了後にその時の参加者からご希望を伺って次回取り上げる作品が決まります。
谷口先生は本当にたくさんの作品の翻訳を手がけていらっしゃいます。
子供の頃にワクワクドキドキしながらページをめくったあの懐かしい作品のお話を、ぜひご一緒に聞いてみませんか?

そしてこのトークで私が何より驚いたのが、子どもの頃に読んだ多くの本がダイジェスト版だと言うこと。
ダイジェスト版は、ストーリーを把握するには十分かもしれませんが、原作者が本当に伝えたかったことを表現するには至らないのだそうです。それも翻訳を手がけた谷口先生だからこそ、そして何より作品を愛し伝えたいと思っていらっしゃる谷口先生だからこそのお言葉かと思います。
そして、ダイジェスト版をきっかけに多くの人たちに完訳を読んでほしいとも仰っていました。

そして面白いのは翻訳秘話や、実話を元にした作品などはストーリーにはされなかった裏話など。
翻訳する苦労話なども楽しいお話です。

来年のNHKの朝の連続テレビ小説は『花子とアン』と言う、赤毛のアンを翻訳された村岡花子先生のお話だそうです。
谷口先生のお話をお聞きいただいているとさらにドラマも楽しめそうです。

イベントの詳細はこちら。
http://i-would-be.dreamlog.jp/archives/8109887.html

お申し込みは電話、メールで承っております。

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